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閉ざされた小箱の中で

2020.04.17 11:59|日常



お久しぶりです。
鬱々とした気持ちを吐き出す場所がないので、ここに書きます。いつもとかなり様子が違う文になることをご了承ください。

ところどころ、センシティブな表現が入るかもしれません。
ご無理をなさらず、つらいときは読み飛ばしてくださいね。
備忘録がわりにこんなことを書く私が言う話ではないけれど、つらい気持ちがつづいているときにつらさを再認識させるような情報は仕入れなくていいと思うのです。



ずっと暗いニュースが続いて気持ちは沈む一方です。
私は昨年から咳喘息をやや引きずっているので(とはいえほとんど症状はなく、冬のはじめにはお医者さまからも今年は大丈夫と言われているのですが)、こんなに恐ろしい呼吸器の病気など、どこかで感染したらどうなるだろうか……と不安な日々を送っています。
数時間おきの悪い知らせ。切り刻まれて大事なところがなにも伝わらない情報。時折流れてくる嘘。
いつも通りに変わらない仕事。それ以外には誰にも会えない寂しさ。
まだ何も収束していないのに復活しはじめる社会機能(いや、社会機能が全部落ちるのはもちろんよくないけれど)。
歌や楽器は早々に機会を奪われ、美術館や博物館や喫茶店にもなかなか行かれず、友人や家族やパートナーに会うこともできず、次にそれが叶うのがいつになるのか全く見通しが立たなくて虚しい気持ち。
そんなものに囲まれながら過ごすうちに少しずつ精神がすり減っているのを、日に日に感じています。

一番つらいのは、もしこのまま何かあったら二度と誰にも会えないのかと考えてしまう瞬間。
死ぬってなに?人の心は死んだらどこに行くの?……と、普段はあまり深く考えないことまでふつふつと湧いてきます。
それよりも怖いのは、お別れができないこと。
自分が誰にも見送られることなくさよならをするのもそうなのですが、身近な人だったらというのを考えると、本当にきついです。

……私は、人を見送る儀式は、ほんとうは遺された人のためにあるものだと思っています。
もちろん、旅立たれた人のためであることは間違いないのですが、旅立たれる方に対して何かを行うということが、たとえ花を一輪捧げることであっても、別れを受け入れるために必要な行為なのだと思います。
それだけに、今回のような未知の感染症で亡くなられた方がそうしたお別れの式を経ることなく骨になってしまうというのは、致し方がないこととはいえ、私が知っている葬送のプロセスとはあまりにもかけ離れているように思います。
私も身近な人を看取ることができないままその人が骨になって戻ってきたとしたら、たぶん受け入れられないと思います。
世界のどこかに、その人の影を追い続けるんじゃないかなと思います。

人間は動物の中でも珍しく、葬送の文化を持つ生き物だと聞いたことがあります。
この病気は最後のときに寄り添い見送るということすら許してくれないということに気がついたとき、私は初めて、重篤な感染症は人間の人間らしい部分を根こそぎ奪ってゆく、絶対に許してはいけない存在なのだと思いました。

ただ、許してはいけないと言いつつも、お医者さんでも学者さんでもなんでもない私にできることは限られています。感染するリスクと感染させるリスクを極限まで削ること。それだけです。
今はただ、嘆きながらも、目の前にあることをこなしてゆくしかないのだなと思いました。
今は会えない人たちに会える日を思いながら。今は行けない場所に行ける日を楽しみにしながら。


❄︎


そんなことを書いている間に、私の職場では全員が在宅勤務となりました。
私は諸々の都合で在宅勤務ができないため、今のところ四月は全て仕事がない状態です。一応四月までは給与の保証はされているけれど、五月以降も保証されているかどうかは分からないのが正直なところです。
誰かが悪いとははっきり言えなくて、強いていうならばこんなリスクもあるとは考えないままに今の職を選んだ私が悪いというほかはなくて。
私はまだ恵まれている方なんだと自分をなんとか言い聞かせて、落ち着かせて、宥め賺して、現在に至ります。
実家には頼れない。誰にも会えない。世界がよくわからない不安に覆われてゆくのを、一人お部屋で眺めるしかないのがつらいです。

Twitterもやっているのですが、最近はデマや嘘も飛び交っていて疲れてきました。会見の情報を追うのも、感染者の動向を追うのも、全部疲れたので、それは早々にやめてしまいました。
今はきれいなもの、うつくしいもの、可愛いもの、憧れるもの、ときどきライフハックで自分のTLを埋めているのですが、本当にこれでいいのかと思ってしまうこともあります。
きらきらしたものに目を奪われて、穏やかな音色に耳を澄ませているうちに、本当に見逃してはいけないものや聞き逃してはいけないものに気がつけなくなり、考えなくてはいけないことから逃げているだけなのではと。そう思えてくるのです。

でも、難しいことはときどき考えるに留めて、今は心が折れないように過ごすことを考えます。
自宅待機に入る前に職場の方から「たくさん笑えるようなものを見て、美味しいもの食べて、お風呂とかにゆっくり浸かって、ちゃんと寝て健やかに過ごすこと」って言われたのですが、本当にそう思います。
健全な精神は健全な肉体から、ではありませんが、結局心を養ってくれるのって、良い睡眠と良い栄養日々心地よく感じられる生活リズムと、それからたくさん笑うことっていう、シンプルなことなんだろうなと思います。

感染症に関する医学的な知識だけはアップデートしつつ、日々穏やかに過ごせてゆけたらと思います。
 




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彼女はまだ知らない、『愛してる』の意味を。

2019.10.17 18:59|日常

ずっと気になっていたけれどなかなか観ることができていなかった『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』。
九月から劇場版が公開中で、来年の冬にはもう一本劇場版が公開されるとのことなので、お休みを使って鑑賞会をしました。
全十三話なので、休みなく見続けてちょうど五時間くらい。あっという間に終わってしまいました。


戦いの中で両腕を失い、敬愛する少佐と離れ離れになってしまった少女兵のヴァイオレット。
戦後、義手を手に入れた彼女は、後見人となった元陸軍中佐のホッジンズのもと、CH郵便社で
働くことに。
当初は配達の仕事に就いていたものの、あることがきっかけで、少佐から最後に言われたある言葉の意味を探すために、手紙の代筆を請け負う「自動手記人形」となることを志す……というお話です。


❄︎


作画に定評のある京都アニメーションの作品なだけあり、とにかく絵が美しいです。
特に主人公のヴァイオレットの透明感が好きですが、どの人物も表情や光の当たりかたで細かな感情のゆらぎを感じさせられました。
また、自然、特にお花や植物が多く描かれているのですが、花びらや落ち葉の一枚一枚まで丁寧に描かれているのにため息が出ました。

最初は「報告書みたいな手紙」しか書くことができず、依頼主の意図とは全く異なる手紙を書いたことで怒らせてしまったこともあったヴァイオレット。
さまざまな依頼を通して自動手記人形として、あるいはひとりの少女としてヴァイオレットが成長してゆく物語でありながら、回ごとに異なる登場人物の視点からヴァイオレットという人物を描き出し、ヴァイオレットとの出会いによって心を変化させてゆく登場人物たちの群像劇という面もあるように思いました。


言葉にはならない何かを、言葉にすることでこぼれ落ちてしまう思いを、手紙の上に紡ぎ出すことを覚え。
兵士だった頃の自分の行いの業の深さに苦しみ、まるで贖罪でも行うかのように戦地に赴き手紙を認める。
最後には依頼主とその手紙を受け取る人の思いを馳せ、あまりの悲しさに最後には堪えきれなかった涙を流してしまう、年相応の少女らしい感情の発露まで覚える……。

そんなヴァイオレットの物語は、慣れない義手で少佐宛ての報告書をしたためるところから始まり、少佐宛ての手紙を自ら書き綴ることで終わりを迎えます。

春も夏も秋も冬も過ぎて何度も巡りますが、貴方がいる季節だけが来ません。

この一節だけで、ヴァイオレットが自動手記人形として様々な経験を積んできたことと、そしてヴァイオレットが少佐に巡り合う日をどれほど待ち望んでいたかが伝わってきて、思わずほろりと泣いてしまいました。

気持ちは知っていてもそれを誰かに伝えるための言葉は知らなかった。
そんなヴァイオレットが、少佐に教えてもらった文字で少佐への言葉を綴った手紙は、今までずっと少佐の命令を心の支えとしてきたヴァイオレットの自立の象徴でもあるように感じました。
自分の足で立って歩いていることに気がつき、今この時点で少佐とは離れ離れになっているということを受け入れたからこそ、「貴方がいる季節だけが来ない」という一文になったのかもしれません。
なぜなら手紙は、相手に書くものだから。もしヴァイオレットが少佐の命令だけを拠り所にして生きる少女のままであったら、あるいは誰かの思いを預かって代筆するという経験がないままであったら、きっとこんな手紙は書けなかったと思うのです。

ギルベルトの命令の象徴でもあった「報告書」と、ヴァイオレットが恐らく生まれて初めて示した思いの結果である「手紙」。
必要最低限の情報を詰め込んだ「報告書」と、思いを伝えるために必要な言葉たちを率直に綴った「手紙」。
どちらも「文字を綴る」という同じ行為の結果なのに、これほどにも異なる意味を持つものが、物語の初めと終わりにそれぞれ置かれているというだけでも、美しく、ヴァイオレットの旅路を思い起こさせてくれる構成だなと思います。
そして初めから終わりまで変わることがなかった、ギルベルトに何かを伝えたいというヴァイオレットの思いが、なおさら愛おしく思えるのです。

物語は完結しても、自動手記人形としてのヴァイオレットはこれからもたくさんの人の思いに触れ、「ヴァイオレット」の名が似合う人になってゆくのでしょう。
そしてその先には必ず彼女が出会う大切な人たちと、そして少佐がいる。そう信じたくなってしまいます。


最終話、最後のシーンでいつものように、自動手記人形としての挨拶を述べたあと、顔を上げたヴァイオレットが見た依頼主はいったい誰であったのか。
それまでの依頼に縁のあった人物か、はたまた……。
そんな想像の余白を味わうことのできる、すてきな作品でした。

見終わったあとは、タイプライターはさすがに使えないけれど、クリーム色の便箋に羽ペンで思いを綴り、真っ赤な封蝋でそっと気持ちを閉じ込める……そんな風に誰かに手紙を出したいと思ってしまいました。


❄︎


先月劇場公開された外伝も一部の劇場ではまだ上映中とのことなので、次のお休みに観る予定です。
原作も見つけたら読んでみようと思います。


Timeless Mucha

2019.09.15 00:00|美術館
一つ前の記事の続き、レオ・レオーニ展のお話の続きです。
新宿の東郷青児美術館を出たあとは、『みんなのミュシャ』展を見るべく、かつて足しげく通った渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムに向かいました。フェルメール、クライドルフ、サティ、ピーターラビット展と何度か行っているのですが、ここ数年は足が遠のいていました。

ミュシャは二度目ですが、前回は晩年の大作『スラヴ叙事詩』が中心の展示会でした。そのときはパリ時代の作品をあまり見ていなかったので、今回は初めて、日本人がイメージするミュシャの王道のような作品群を見ることが叶いました。

パリ時代のあまりにも有名な、サラ・ベルナールのポスターもそうなのですが、ミュシャの絵から感じられるのは、描いているものがあくまでもフィクションである、非現実であるという意識でした。
たとえば、枠からはみ出すように描かれたドレスの裾に、それ自体が枠となっている乙女の長い髪。絶対に現実にはありえない動きであったり、描かれている人物が「画面の外」を知覚しているかのような目線や物の配置は、メタフィクション的な考え方が背景にあることを思わされました。


今回の展示会の最大の特徴は、ミュシャに影響を受けたポップカルチャーのアートや、現代日本の漫画家さんの原画が展示されていたこと。
特に海外のレコードジャケットの中には、もはやミュシャの作品そのままなのでは?!と思ってしまうほどの模写もあるぐらい。
日本の漫画家さんの原画も、構図や線の使い方にミュシャの影響を受けているものが多く展示されていました。

本当は気がついていなかっただけで、ミュシャの影響を受けた作品って、実はすごく色々なところにあるのかもしれません。
その日以降、色々なところで「ミュシャっぽい」絵に気がつくようようになりました。
知覚することや探すことの出来る範囲が広がるので、美術館に行くのは好きです。

百年以上経過しているというのに、オマージュが作られ、デザインの参考にする人がいるということは、ミュシャ本人がどう考えるかはわからないけれど、本当にすばらしいことだと思います。これほどに現代まで、しかも美術やポスターという範疇を超えたところにまで、根強い影響を残した画家を、私はまだ知りません。
仮にミュシャの作品が全て失われたとしても、その流れを汲む作品は色々な時代に色々な形で残ってゆくのだと思います。
そしてその現象こそが、今回の展示のタイトルの英訳≪Timeless Mucha≫が指しているものなのかもしれません。


これからもずっと、世界のどこかにいるミュシャを見つけることができますように。
そんなことを思いながら帰路についたのでした。

Reading Leo Lionni, again

2019.09.10 23:54|美術館

この夏に行ってみたかった展示はいくつもありましたが、そのうちの一つ『みんなのレオ・レオーニ展』のお話を。

新宿は今も昔も馴染み深い街の一つですが、実は東郷青児美術館に行くのは初めて。
展示室から見える47階からの眺めは少し怖くもあり、でも空から東京のすがたを眺めてあれじゃないこれじゃないとおしゃべりするのは楽しかったです。


展示室の前ではフレデリックがお出迎え。
レオーニの絵本の中でも本人が制作に加わった上でアニメ化された作品の上映や、絵本のコーナーもありました。絵本の棚にはレオーニの作品ばかりがぎっしりと並んでいたのですが、こんなにたくさん作品を出している人だとは思っていなかったので圧倒されてしまいました。

個人的に心に残ったのは『チコときんいろのつばさ』。
子ども向けなのかもしれないけれど、大人になった今になるとすごく胸が痛くなる結末でした。
翼を持たずに生まれて仲間に守られきたチコ。ある日授かった翼は仲間とは違う黄金色で、それが理由でチコは仲間に追い出されてしまいます。最後は色々とあって仲間と同じ見た目になってしまうのですが、そのときにチコを仲間に迎え入れた鳥たちが発する「ようやく君も僕たちと同じになったね」という言葉は、何とも言えず残酷です。
それでも最後の、「つばさのいろはかわったけど、こころのなかはかえられない」という、レオーニの強い思いを感じられるチコのメッセージに勇気をもらえるのも、また事実です。
この強いメッセージを発するに至った背景には、ユダヤ系として戦時中を過ごしたことや、子ども時代に世界各国を転々とした経験があるのかもしれません。


原画の展示はなかったのですが『うさぎたちのにわ』は今回会場で手にとってみて好きになったお話です。
二匹の無垢なうさぎが、絶対に食べてはいけないと言われているりんごの木に近づいて、そこにいた蛇と仲良くなって……というあらすじに、旧約聖書のアダムとエバの物語が下敷きにあることを思わされます。そしてアダムとエバの話を知っている人ほど、読み進めるのがちょっと怖くなっちゃうかもしれません(実際はめでたしめでたしのハッピーエンドです)。
固定観念の壁を越えること、そしてその先にある世界を知る勇気を、教えてもらえたような気がします。

アニメの上映もされていた『フレデリック』はレオーニが思う「社会における芸術家の役割」を示した作品と言われています。
フレデリックは冬眠の準備に励むねずみたちを横目に何もしていない(ように見える)ねずみ。でも、寂しく暗い冬ごもりの生活の中で、フレデリックが語る外の世界に、仲間のねずみたちの心もだんだん明るくなってくるのです。
作中に出てくる詩には、「空には4匹のねずみがいて、その4匹が一つずつ季節を管理している」というような内容も登場しますが、この表現がとても好きです。
四季の変化には時々辟易させられますが、「ああ、空の上のねずみが頑張っているんだな」と思うと、ちょっとだけ楽しい気分で乗り切れそうです。


アートディレクターとして働いていた頃の作品や、想像肖像や平行植物のシリーズも見応えがありました。特に平行植物は、コラージュやマーブリングなどで彩られたあざやかな絵本とは対極に位置するような、シュールさすら感じられる作品群です。
『スイミー』があまりにも広く知られているのでそういう作風なのかなと思ってしまいがちなのですが、このような作品を見ていると、レオーニの想像力の幅広さと深さを思わされます。
ただしどの作品にも一貫しているのは、植物や動物などのつぶさな観察なしには成り立つことのない作品であるということ。時代や作風は違うけれど、ベアトリクス・ポターとも少し通じるところがありそうです。

そんな観察眼があることを思わされたのは、レオーニ本人も制作にかかわった『ぼくのだ!わたしのよ!』のアニメーション素材。いわゆるコマ撮りで、パーツを少しずつ動かして作られているのですが、カエルたちの足の動きのパーツの精密さにただ眼を見張るばかりでした。小さな生き物へに注がれた眼差しがあったからこそのアニメーションの出来映えなのだと思います。

カラフルな色彩やコラージュの手法、そしてキャラクターの造形は子どもに好まれそうなものなのに、お話は大人の心にもしみるというか、むしろ大人に向けて書かれたのではないかとさえ思えました。
個人が個人であることの自由。個人は誰の付属品でもなくその人自身がはっきりとした個であること。そしてその自由は心にも適用されること。
『スイミー』も子どものころは絵しか見ていなかったのですが、改めて読み直して、また違う切り口で話を味わうことができました。
大切な存在を失い、怖い思いをして、心を傷つけられて、悲しみに暮れて、でも世界の美しさに心を開いて、悲しみを乗り越えるために勇気と知恵を振り絞る。
どんなに酷い目にあったとしても、それでも世界は美しいのだということを教えてくれる絵本のように思えました。

どんなに悲しくても、美しいものに心が動くのは、人として当たり前の感情。
この先悲しくても、何かを失うことがあるとしても、いつでもやさしく語りかけてくる美しいものやすてきなものにも、心を揺り動かしてきそうなものにも、素直に向き合っていられたらと思います。


❄︎


展示の所要時間は70分と聞いていましたが、気がついたら3時間が経過していました。
このあとは『みんなのミュシャ展』のために渋谷に移動したのですが、そのときのお話はまた別の記事で書きますね。

アンティーク着物万華鏡

2019.08.22 22:39|美術館
根津の駅から長い坂道を歩いて、弥生美術館にやってきました。
目的は特別展の『アンティーク着物万華鏡』。
前回の『ニッポン制服百年史』の際に展示の予定を知って、華宵が描いた水色の着物の少女のアバンギャルドさに驚きながらも、絶対に行きたいと思っていました。
着物に使われた意匠の解説から、大正から昭和初期の着物の展示まで。たっぷりと見応えがありました。



今回おもしろいと思ったのは、抒情画に出てくる着物を再現したコーディネイトが展示されていたこと。
特に好きだったのは、青い芒の着物のコーディネート。薄い素材の着物にほんのりと透ける、襦袢の淡い色と柄に思わずどきりとしてしまいました。

それから、抒情画家の絵に登場する少女はときどき、植物学的にはありえない、なんの草花なのかわからない「謎の草」とか「謎の花」を纏って登場することもあるそうで。
これは植物としての正確性よりも見た目の優美さを優先した結果とのことですが、興味深いのは同じことが実物の着物や帯の柄でも起きていたということ。抒情画家の中には着物の柄を手がけた人もいたそうです。
実物の着物がそうであったから抒情画もそうなっていったというところに、抒情画が単なる絵ではなく、その当時の少女の映し絵であることを感じさせされました。


三階には長襦袢を集めた展示コーナーもありました。
今では着物の下に着る物、見えてはいけないものと言われることが多い長襦袢は、けれどもしかし、大正から昭和初期までは文字通り陽の目をみる存在だったようです。
そもそも長襦袢は下着ではなく、かといってそれだけで歩けるような上着でもなく、西洋の洋服の概念ではなんとも説明しがたい役割をしているのだということも新しく学びました。

ガラスケースの内側に展示されていたのは、どれも着物と見まごうばかりに色鮮やかな長襦袢。
特に好きなのは、紅い襦袢の上から黒い紗の着物を羽織った姿。どちらもアンティークなのに、元号が何度も改まった今からみてもかっこいい、粋な組み合わせです。


❄︎


お隣の竹久夢二美術館も着物がテーマの展示になっていました。
華宵が描く着物の少女はどちらかというと纏ったものに重きが置かれ、夢二が描く着物の女性は纏ったときの体の美しさを強く主張する、といった要旨の説明があったのですが、言われてみれば確かにそうだなあと思います。
華宵の作品は着物の模様とか着こなし方とか、着物それ自体の美しさが際立っていて、柄もデザインも本当に凝っていることが一目でわかります。
夢二の作品は、着物自体がシンプルな分、人体の美しさというか、体の線の優美さや柔らかさが目を引きます。

いつも弥生美術館ばかり見てしまって、気がついたら夢二美術館の方はやや駆け足で見ている……ということが多いのが悩みです。
今年はもう一回行く予定なので、そのときはちゃんと夢二美術館も堪能したいと思います。

在りし日の乙女たちの姿を見ると、こちらまで気持ちがきりりとします。
来たときよりもほんの少しだけ背筋を伸ばして、スカートの裾は乱さないように、乙女の気分で美術館を後にしたのでした。





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ゆめ

Author:ゆめ
悩みの半分は音楽。でも喜びのほとんども音楽。
苦痛の半分は読書。でも愉しみのほとんども読書。
そう言えるようになったら幸せだな、なんて考えている、脳内お花畑なモラトリアム。

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